大谷石の歴史

大谷石が建築資材として使われるようになったのは、奈良時代の741年(天平13年)に下野国分寺が建立された時と伝えられます。寺の土台石に用いられたものです。その後、平安時代の1063年(康平6年)に藤原宗円による宇都宮城築城、江戸時代になってからは、1620年(元和6年)に本多上野介正純の城郭普請などに使われています。鬼怒川を使った水運が盛んになると、川を使って遠く江戸に運ばれ、優れた建築材として広く使われるようになりました。本多上野介正純が大谷石を切り出した地域は、今でも御前山と呼ばれています。

また、大谷石の採掘地である大谷地区は、特に運搬手段が発達した明治以降に大谷石を切り出す産地として繁栄してきました。数多くの石材店が軒を連ね、最盛期に比べれば減少したものの、採掘は今でも行われています。

広く知られるようになったきっかけ

近代に入ってから、大谷石が広く注目を集めるようになったきっかけとなることがありました。1923年(大正12年)9月1日、突如関東地方を襲ったマグニチュード8という巨大地震、関東大震災の時でした。

東京には、大震災の前年、アメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトの設計によって旧帝国ホテルが完成していました。多くの建物が瓦解し、炎上する中、内外装材として大谷石とコンクリートを組み合わせてつくられた旧帝国ホテルは、大きな被害を免れることができました。これにより、大谷石の耐火性耐震性が広く知れ渡るところとなったのです。旧帝国ホテルはその後取り壊されましたが、愛知県犬山市の博物館 明治村に一部復元、保存されています。

全国への普及

大谷石が全国的に建築資材として全国に広がった背景には、もうひとつ、鉄道の普及がありました。昔は採掘場で切り出された石は、馬車や人車を使って運搬していましたが、1885年(明治18年)、大宮-宇都宮間に東北本線が開通し、さらに、1896年(明治29年)に宇都宮石材軌道運輸株式会社が設立されると、搬出は格段に容易になり、販路は全国に拡大していきました。

採掘技術の進歩と採掘量の増加

採掘のようす

近代に入ってからは、採掘の技術も進歩しました。手掘りの時代には、切り出す際につるはしを用いていましたが、塀に使う50石(約70kg)を掘り出すのには、1人で1日10本がせいぜいだったといいます。1897年(明治30年)に6,000トンだった年間産出量は、1902年(明治35年)には40,000トンとなり、1912年(大正元年)に140,000トン、1926年(昭和元年)には245,000トンと飛躍的な伸びを記録しました。さらに、採掘の技術の進歩機械化によって、1人あたり1日50本の採石が可能になり、昭和40年代の最盛期には年間の産出量は890,000万トンになりました。

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